ボックの砲台(ルクセンブルク/ルクセンブルク旧市街)

 ルク、という言葉は「城」を意味するそうだ。それで、ローマ街道の要衝に建てられた「小さな城」を含む一帯が、いつからかルクセン”ブルク”と呼ばれるようになったらしい。
 という話を聞いて、「ローマ人の物語」から適当な街道図を眺めてみた。なるほど、当時の属州ベルジカを横断する街道が確かにあって、現在のフランスのランスから、ドイツのトリーアまで街道が通っていたようだ。その交通の要衝、という立ち位置は、時代が変わってお役御免、とはならないらしい。なんとなく、世界史の教科書的にもこのあたりは支配者が行ったり来たり(スペインだったり、フランスだったり、オランダだったり。)している感がある。
 20世紀に入ってからも、第一次世界大戦の会戦当初、トリーアからモーゼル川を上ってきたドイツ軍が、ルクセンブルクを「途中駅」としてベルギーに入っている(この辺の下りは、「八月の砲声」が少し詳しめに描写している)し、第二次世界大戦ではアルデンヌの森の出入り口として、やっぱりドイツ軍が侵攻したり、その5年後にアメリカ軍が解放したり、ドイツ軍が反撃の通り道にしたりと、何かとルクセンブルクの登場機会は多い。
 必然的に、この地を支配した大国たちは「小さな城」の増築を繰り返して(20世紀になっても防空壕として改装されていたようだ)、その結果出来上がったのが世界遺産の「ルクセンブルク旧市街と要塞」だそうだ。と、ここまで蘊蓄が長くなった。
 閑話休題、ルクセンブルクを訪問した時の話。ルクセンブルクは、ベルギーを発ってドイツに至る移動日に、電車の乗り換えがてら、降り立つことにしていた。そう、やっぱり交通の要衝であることには変わりない。駅から真新しいビルが立ち並ぶ新市街を通って、大公宮のある旧市街を一とおり回ったけれども、一番印象に残ったのは、ボックの砲台。険しい渓谷と物々しい胸壁、そして橋を落としてしまえば籠城できそうな街並みが、かつて要塞都市だったということを強く物語っていた。
 

 日本にもかつて、法令等に基づく「要塞」が存在していたけれども、それらは全て「沿岸要塞」と呼ばれるもので、艦船に対するものだったそうだ。そういえば、砲台というとお台場、要塞というと東京湾要塞(猿島など)が観光スポットとなっているけれども、全て海沿いにあるもので、近代の「陸上要塞」らしい史跡は五稜郭ぐらいかもしれない。そういうこともあって、ルクセンブルクの陸上要塞が印象的だった。
 もう一つ。上の写真の砲台そのものよりも、その逆側のアングルの方がもっと印象的だったかもしれない。渓谷と胸壁の向こうに、ルクセンブルクの旧市街が重なっていて、遠くには新市街のビル群が見えていた。中世から続く城塞が役目を終えた後も、要衝であり続ける、そんなルクセンブルクを感じた気がした。

 この後、古くはローマ人、そしてその後の数々の商人や軍隊、外交官たちの例に漏れず、ルクセンブルクを後にして、モーゼル川沿いを下り、トリーアを経てコブレンツに至るルートをたどったのだけれども、天気が悪い写真が続くのも考え物なので、いったん筆を置くことにしたい。



●とき
 2013年9月17日
●ところ
 ルクセンブルク旧市街、ボックの砲台(大まかな住所については末尾参照)



●アクセス
 ルクセンブルク中央駅からはバスでも行けるけれども、歩いて、新市街を通って、旧市街を抜けたのは正解だったと思う。
●もの
 砲台と渓谷と街並みと
●こと
 「八月の砲声」バーバラ・W・タックマン

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