「戦後」が始まった部屋(ドイツ/ポツダム)

 ェルサイユ宮殿の鏡の間、あるいはニューヨークのプラザホテル、日本の例でいえば清州城。歴史上有名な会議は、その舞台も印象的なものが多いけれども、この会議室もその一つ。1945年の7月に、トルーマン、スターリンとチャーチル(政権交代により途中よりアトリー)によるポツダム会談の舞台になったのがこの部屋。つまり、ポツダム宣言がまとめられた場所とも言える。
 大きな窓と、木と漆喰で2色になった壁が印象的でだけれども、部屋は意外なほどに狭い。当時の様子を再現して、有名な円卓も置いてあるけれども、首脳3人―3つだけ大きな椅子がある―と各々随員4人が座れるかな、といったサイズ感だ。15人くらいで何億人かの運命を決めた会談だったと奇妙な実感が沸いてきた。
 この会議室のある、ツェツィーリンホフ宮殿は、ポツダムの中でも「新庭園地区」と呼ばれる森林の中に建っていた。林の中から、ハーフティンバーと赤茶色の瓦屋根が見えてくる。宮殿、といいつつサンスーシー宮殿の離宮にあたるためか、こじんまりしていて田舎風な趣だ。
 1945年、ポツダムはソ連軍の占領下にあったところ、ポツダム会談の予定が設定されてから、ホスト役のソ連側は大急ぎで、かつ最大級の待遇で3首脳を迎える準備をしたらしい。宮殿のオーディオガイド―場所柄か日本語もあった―曰く、首脳が使用する家具や調度品を、同じく占領下にある別の宮殿から持ってきた、なり、動物好きのチャーチルへの計らいとしてイギリス側の部屋に犬の絵を掲げた、とか、そんな逸話がある。
 極め付けは、記念写真で有名なこの中庭。当時のまま、赤い星が残っている。丸に五芒星は連合国を象徴するマークであるけれども、それにソビエトを象徴する赤い五芒星がを掛け合わせているのは、皮肉なのか、ダブルミーニングなのか。いずれにせよ、この有名な花壇も、会談が行われた1945年の7月に植え込まれたそうだ。
 何度となく教科書で見た写真の舞台に来た、という興奮と、狭い会議室の中十数人で戦後秩序を決めたということへの実感と、複雑な思いのまま宮殿を後にする。ポツダム会談の舞台にならなければ、ソ連側が設営した会議場の痕跡がなければ、田舎的で美しい離宮だったのだろうな、と思うと少しもったいないような気もした。そんなことをよそに、森から鳥の鳴き声が聞こえていた。



●とき
 2011年8月31日
●ところ
 ポツダム、新庭園地区(大まかな住所は末尾参照)
●アクセス
 ベルリンからSバーンに乗ってバス乗り継ぎ。新庭園地区を少し歩いた記憶がある。
●もの
 ポツダム宣言がまとめられたツェツィーリンホフ宮殿

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