ハーメルンの笛吹き男(ドイツ/ハーメルン)
白い壁に大きな窓と時計、オレンジの屋根。館山駅を少し上品にして、代わりにどんよりした雲空を与えた感じのハーメルン駅に着いた。ヨーロッパの町のいくつかに漏れず、駅の周りは新市街で、目当ての旧市街までしばらく歩く。やがて、大きな3差路に出て、地下道を通って横断する。薄暗い地下道を抜けると、ハーフティンバーとファサードが並んでいた。
ハーメルンの旧市街は、500メートルほどの正円形で、その円周を幹線道路と川が囲んでいる。端から端まで10分もあればたどり着く。そんな小さな町のクライマックスを、旧市街に入ってすぐ、地下道の目と鼻の先で見つけてしまった。「ネズミ捕り男の家」と「舞楽禁制通り」だ。
ハーメルンの旧市街は、500メートルほどの正円形で、その円周を幹線道路と川が囲んでいる。端から端まで10分もあればたどり着く。そんな小さな町のクライマックスを、旧市街に入ってすぐ、地下道の目と鼻の先で見つけてしまった。「ネズミ捕り男の家」と「舞楽禁制通り」だ。
「ハーメルンの笛吹き男」の話には2度触れている。一度目は、テレビの人形劇で。二度目は世界史の参考書、「十字軍はいかにして迷走していったか」の下りで、ハーメルンの昔話も少年十字軍に関係する話かもしれない、というコラム。
教育テレビ的に、「よそ者を虐めると手痛い仕返しにあうぞ!!」という寓話なのか、それとも参考書が夜話として紹介した「少年十字軍の徴募官への恨み節」なのか、はたまたネズミが絡むのだから「ペスト流行の暗示だ」というのを含めて、解釈次第かもしれないけれども、その、ハーメルンの「事件現場」に「事実関係」が掲げてあったので紹介しておきたい。
(3段落目より意訳)
西暦1284年、6月26日の聖ヨハネと聖パウロの日。ハーメルン生まれの150人の子供たちが、極彩色の服を着た一人の笛吹きによって、街の外に連れ出された。コッペンベルク近くの洞窟を通ったあと、彼らは永久に失踪した。
ということがあって、今でもハーメルンの町は、笛の音色に誘われて子供たちが通って行った道を「舞楽禁制通り」として、踊りや音楽を禁止しているのでした、という話。
その「事件現場」、つまり「舞楽禁制通り」の入り口に立っている。通りの入り口には、金色の笛吹き男の絵で看板が出ている。「ネズミ捕り男の家」というレストランで、曰く、「笛吹き男が泊まった宿」の跡地がここだ、と触れ込んでいる。そのレストランの脇、笛吹き男が、音楽で子供たちを釣っていったという「舞楽禁制通り」を覗いてみる。
確かに誰も踊りも、歌いもしていない。「舞楽禁制通り」は静かな裏通りだった。通りを後にして、ガイドブック曰く「見どころ」という、人形時計を見に行ったけれどもあいにく故障中だったりして、ほどなくすると旧市街を見尽くした感が出てきた。
目抜き通りを行くと、笛吹き男とすれ違った。笛の音色はしなかったけれども、ハーメルンの町を後にすることにした。
●とき
2011年9月1日
●ところ
ハーメルン、舞楽禁制通りとオスター通り。(大まかな住所については末尾参照)
●アクセス
ハーメルン駅から幹線道路を西に向かって、地下道を渡ってすぐ。
●もの
舞楽禁制通り、笛吹き男の像
●こと
ハーメルンの笛吹き男
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