「すべての道」が始まる場所(イタリア/ローマ)

 べての道はローマに通ず、という諺のとおり、ローマ街道の遺構はヨーロッパ中で見かけた。北イングランドの牧草地の真ん中、ハドリアヌスの長城の袂にも、モーゼル川沿いトリーアの街中にも、2,000年前の道路が存在しているのだから驚く。極め付けはポンペイで、ローマ街道に歩道と横断歩道があったのは有名だけれども、車止めまで整備されているのを見たときは、オーパーツに近いものを感じた
 最も、ローマ街道はメソポタミアからイベリア半島まで、ブリテン島からナイル川上流域まで通じていた訳で、ブリタニアやベルジカの、いわば最果ての地方道路だけで感慨を持つのはお上りさんが過ぎるかもしれない。だから、ローマ滞在を終えて帰国するその日、「「すべての道」が始まる場所に行こう」と思った。
 赤茶色のアウレリアヌス城壁が見えて、ローマの外れが近づいていることを知った。崩れかかった凱旋門の手前でバスを降りる。道はそのまま凱旋門の下を通っていて、バスも、後続のトラックも車高すれすれで凱旋門に吸い込まれていく。足元には、確かに白色のペンキで路面標識があるけれども、道は目の細かい石畳だった。古代の道が生活道路になっていた。
 その、石畳を進んで、凱旋門の先、城壁に向かう。先ほどのバスとトラックが、今度は大きな口を開けた城門に、丸々飲み込まれていくのが見えた。ビル5~6階建てぐらいの高さのアウレリアヌス城壁に開いた口、アッピア門は乗用車なら3台重ねても通れるくらいの大口だった。
 この門、現代ではサン・セバスティアーノ門、あるいは「城壁博物館」として紹介されるけれども、やはり古代のとおりアッピア門と呼ぶのは天邪鬼だろうか。
アッピア街道、つまりは初の本格的ローマ街道として世界史の教科書にも紹介される、ローマ街道一号線の起点が、ここだった。イタリアの「かかと」にある、当時からの主要港、ブリンディジに至る大動脈。スパルタクスの反乱軍が進軍にして(そして処刑されて)、カエサルペテロも通った道であって、さらに蛇足すると、五賢帝の時代にはトラヤヌス帝が第二東名よろしく、直線的な短縮経路を作るほどの重要道路だったそうだ。
 ひっきりなしに通っていく車を無視して、門の脇から、その先に続いているアッピア街道を眺めてみる。車2車線と意外に道幅は狭い。
 2,000年前、ここからターラントやブリンディジに繋がっていて、そこからさらに船便でアテネやカルタゴ、アレクサンドリアに渡れたはずだ。いやもっと、エリュトゥーラ海案内記のとおり、インド洋に出て、その先アジアまで行けたかもしれない。ベトナムではローマコインが出土しているし、中国には大秦王安敦、つまりローマ皇帝のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝だって記録に残っている。
 ただ、その先、日本につながる航路が思い当たらない。古代ローマ帝国を想像していたはずが、いつの間にか意識が一足先に、帰国の道を歩み始めていた。

●とき
 2017年9月22日
●ところ
 ローマ、サン・セバスティアーノ門通り。つまりは、古代のローマの都外れ、アッピア門(大まかな住所については末尾参照)。

●アクセス
 「ドゥルーゾのアーチ」と呼ばれる崩れかかった凱旋門の手前に最寄りのバス停がある。
 これとは別に、城壁を歩いて眺められる、分かりやすい道順もある。カラカラ浴場から南に向かって、城壁を超えたところで左折してワンブロックとなり道なり。ただし、帰りこの経路を逆順に試したけれども、途中になってかなり歩くことに気づいて、心が折れたのでお勧めしない。
●もの
 アッピア街道、アッピア門(サン・セバスティアーノ門、城壁博物館)
●こと
 ローマ街道を通って弥生時代の日本までたどり着けるか、想像したこと(たぶん行けない)

コメント