マルタの近代が始まったテーブル(マルタ/ヴァレッタ)

 世と近代、その境目は人によって、学説によって区々だというけれども、マルタの場合は比較的明確かもしれない。封建制の終わりが近代の始まりだとするのであれば、ヴァレッタにひっそりと残る丸いテーブルこそ、その後の近代マルタの行く末を決めた場所と言えると思う。
 1798年から始まるエジプト遠征に先立つこと2年、トリコロールと鷲の軍旗を先頭に、ナポレオンとフランス軍がマルタにやってきた。フランスはマルタ騎士団、こと聖ヨハネ騎士団を追放した上で、「革命の輸出」をここマルタでも始める。ナポレオンがマルタに滞在したのは1週間に満たないそうだけれども、その間に、奴隷制の廃止や地方自治体の設置など、あらかたの勅令を発したようだ。
 その後、1900年までフランスのマルタ占領は継続するけれども、ローマ=カトリック教会を中核とした騎士団国家に馴染んだマルタの住民の多くは、急進的なボナパルティズムを展開する占領政策になじめない。いきなり、近世、ことによると中世から続く社会に、近代を持ち込むのだから、当然に軋轢が生じる
 フランスの敗色濃いエジプト遠征と相まって、マルタ島民はフランスに反抗しつつ、新しい支配者―役目を終えた騎士団ではなく、そしてフランスとは別の近代国家―として、イギリスを呼び寄せた
 ヴァレッタの聖エルモ要塞跡に、そのテーブルは展示してある。説明版曰く、1900年に「マルタ人の格別な求めにより」やってきたイギリス軍に対して、密室の中、フランス側が降伏交渉を申し込んだのが、「まさにこのテーブル」だそうだ。つまり、このテーブルでの「密室会議」から先、聖ヨハネ騎士団はマルタ島を回復せず、病院騎士団―本来の設立目的―に回帰し、マルタは大英帝国の一部として近代のスタートを切ったと言えそうだ。
 4年間のフランス占領と、その後のイギリス領化により、マルタ社会は様変わりしたことは、想像に難くない。それまでの常識―例えば、異教徒の船を拿捕して船員を奴隷化するか、それとも北アフリカの海賊やオスマン帝国海軍の侵入を許して島民を奴隷として奪われるかという奴隷制。或いは、騎士団と教会によるある種の祭政一致体制やラテン語やフランス語やイタリア語といった多数の公用語―は過去のものとなり、地中海における大英帝国の要石として近代的な制度や文物が導入されていく。
やがて、宗主国とマルタ島民は、この狭い島に鉄道を通し、オペラハウスを建て、そして赤いイギリス式の電話ボックスさえ立ち並ぶようになる(ただし、ビールだけは宗主国にならわずラガータイプを導入する大英断を下す)けれどもそれは別の話としたい。重要な歴史的意味を持つこのテーブルは、エジプト戦役の終盤、ひっそりと敗者が退去を申し出たときと同じように、静かな一室に安置されていた。



●とき
 2016‎年‎9‎月‎22‎日
●ところ
 ヴァレッタ、聖エルモの砦(大まかな住所は末尾参照)



●アクセス
 ヴァレッタの国会議事堂前からリパブリック通りを直進。突き当りまで、半島の先まで直進。
●もの
 フランス占領軍の降伏交渉に使われた円卓

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